巨大都市と無数の小さな街区の物語。全50話の掌編が作り出す世界
(第6回カクヨムWeb小説コンテスト途中選考通過作品)
#1 過去への帰郷
。
目の前をゆったりと流れて行く、この大きな川の眺めだけは戦争前とそんなに変ってはいないと、ジャンにはそう思えた。
しかし実際には、向こう岸で輝く家々の灯りは、彼が子供の頃に見たものとは全く違っているはずだ。以前の町は壊滅し、今の橋頭区の市街地は、全くの更地だった土地に一から造られたものだ。彼の背後に林立する高度集積地区の高層ビル群も、その点では全く同様だった。
一生のうちに、またこの大都会へ戻って来ることがあろうとは、彼は思ってもみなかった。まだ幼かったあの日、戦況の悪化に伴ってジャンはここを離れ、地方へ――現在の郡部諸街区へと逃れた。その直後、首都圏十七区十一市は全て地上から消滅する。彼は帰るべき場所を失うことになった。
以来、半世紀と少し……まさか、今頃になって亡き母親の形見が、市と名を変えて復活したこの町の地下から見つかるとは。超々高層ビルの建築に際しては、相当な深さにまで基礎工事を行うものらしい。
彼は、手のひらに載せたペンダントを握り締めた。帯びていたはずの瘴性電磁波を慎重に消去された、その銀色の円盤の中には、彼が幼少時に暮らした部屋を映した立体ホログラフ動態像が色褪せることもなく残されていた。
角砂糖ほどの大きさに圧縮された部屋の中では、父と母、幼いころのジャンとさらに幼い妹、その四人が楽し気に積み木遊びをしていた。いつまでも、飽きることも無く。
市当局の戦前文化復元官――まだそんな役職が残っているのだ――から発掘されたペンダントを手渡された彼は、人もまばらなこの川べりのボードウォークまで独り歩いてやって来た。
ベンチに腰かけた彼は、終わらない積み木遊びを見ながら泣いた。何度も繰り返し、泣いた。おぼろげな記憶となって残るあの幸せな日々は、本当に存在したのだった。
ようやく歩き始めたばかりだった妹は、地方への疎開を前に、致命兵器の攻撃によって父母と共に亡くなった。一人生き残ったジャンの人生は、必ずしも幸せなものとは言い難かったが、しかし六十余年もの時を生きて来られたことは、それだけでも十分に恵まれたことだった。
泣き疲れて顔を上げた彼は、川べりの街灯のそばに立つ女の子が、こちらをじっと見ていることに気付いた。大きな瞳をきょとんと見開いたその小さな子の足元には、バチェラー燈が放つオレンジ色の光が、身長の何倍もある長い影を作っていた。子供のいない彼には、その子の年頃が良くわからない。まだ幼年学校には上がっていないのではないか。
急に照れ臭くなって、ジャンは独り咳払いをしたり、思い切り伸びをしながら「まいった、まいった」などとつぶやいてみたりした。
その様子がおかしかったのか、女の子は笑顔になって、そして突然彼に話しかけて来た。
「おじさんみたいな大人の人でも、やっぱり悲しくなってそんなに泣くの?」
「ん? いや、あれはね……」
と彼は言い訳を考えかけて、しかし子供相手に言い訳などする必要があるだろうか?
「……そうだね、悲しくって、嬉しくって、おじさんが子供だった時のことを思い出したりして、それで泣いていたんだよ」
「わたしもね、悲しいの」
おじさんの言葉を理解したのかどうか、女の子はジャンの背後で輝くビル群を見上げて、じっと見つめた。
「お友達と、みんなお別れなの。お引越しだから、あれに乗るって」
彼女は、川のほうを振り返った。ちょうど河口の方向から、大艇級の大型旅客飛行艇がエンジンの轟音を響かせながら、流れを遡上してくるところだった。ずらりと並んだ窓の灯りが、波立つ水面に反射してきらきらと光っている。
あれは、南方へと飛ぶ便のはずだ。彼の住む遠い街区よりも、さらに遥かに南へと。
「でも、泣かないの。だって、きっと帰ってくるんだから、わたし」
再びジャンのほうを向いた彼女は、決然と言って、うなずいた。
「そうだね。それがいい。帰って来れた時に、思い切り泣けばいいよ」
おじさんのように、とは彼は言わなかった。
「帰ってきたら、嬉しいから泣かないよ。変なの」
女の子は、おかしそうに笑った。
「じゃあね、ばいばい、おじさん。もうお艇が来るから」
ボードウォークを桟橋へと走り去る彼女の後ろ姿に向かって、ジャンは手を振り続けた。そう、変だね、こうしてあの日に帰って来れたのに。でも、おじさんは泣きたかったんだ。
両翼上の八発のエンジンを停止して着桟した大艇級は、行列を作る乗客を全て収容し終えると、再びプロペラを回して河口方向へと進み始めた。
そして速度を上げながら、流れを追い越して川を下り、やがて船首を持ち上げて離水すると、翼端灯の赤と緑の点滅を残して夜空を遠ざかって行った。
すっかり静まり返った川の眺めは、やはり子供の頃と変わらないように見えた。いつかあの子がここへ帰って来る、その時にもきっと、この風景が大きく変わることはないだろう。彼は祈る。彼女の長い長い旅が、どうか素晴らしいものになりますように。
ペンダントを握り締め、ジャンは駅へと歩き始めた。彼もまた今夜、この大都会を去る。自分にも幸せな日々がちゃんとあったのだと、その安らぎを土産にして。
(了)
[次回予告]
美しい女性たちが仮装して練り歩く迎春祭の日、迷宮のような町に一人取り残された少年は……。次回メトロポリタン・ストーリーズ、「指し示す機体」。
――メトロポリスで、またお逢いしましょう。
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