キャノンボール、夏の海へ(第1話)

第1話 車は手に入ったぞ。海へドライブだ

 昨晩の飲み会は、僕にとっても、その他の参加者全員にとっても、平成の時代において最悪級のものだった。
 バイト仲間である大学の後輩たちを連れて、仕事帰りに駅南の居酒屋に出かけたのは良かったが、失恋したばかりという男が混ざっていたのはまずかった。泥酔の末に、そいつが大騒ぎを始めたのである。

 その二回生・白滝は、振られた相手らしい「みさきちゃん」の名前を連呼するわ、座敷でのたうち回ってビール瓶やグラスをひっくり返すわ、赤い蓋を開けた卓上塩を頭から浴びて「いっそ殺してくれ」と喚くわと、悪行の限りを尽くしてくれた。
 失恋もなにも、一般教養の講義で一緒になるというみさきちゃんとは付き合っているわけでも何でもなくて、単に映画に誘ったら断られたというだけのことらしかった。二十一世紀のこの現代に、そんなことでこれだけの大騒ぎができるような人間がいるのは驚きだ。
 しかし最後には、全員が連帯責任で店を追い出され、塩を撒かれることになってしまった。すでに塩まみれの白滝にはどうということもなかろうが、残る参加者たちは惨めな思いで夜の町をとぼとぼと歩くことになった。
 どうにか白滝をアパートまで送り届け、家に帰り着いた時には、もう深夜三時過ぎだった。シャワーを浴び、ベッドに潜り込む。あとはひたすら死んだようにぐっすりと眠るつもりだった。どうせ大学は夏休みの真っ最中、いくら寝ていたって誰にも文句など言われない。悲惨な一日よ、さようなら。また明日の夕方お会いしましょう。

 その僕を最初に叩き起こしたのは、セミの大合唱だった。重い体を起こして時計を見ると、まだ朝の七時だ。しかし、クーラーが切れた六畳一間の室内はすでにサウナのような暑さで、全身汗びっしょり。窓のカーテンは白熱したように輝いていて、見事な夏空の真ん中に浮かんだ太陽が、盛大に燃え上がっている様子が容易に想像できた。
 くそ、と僕は窓に取り付けられたクーラーのスイッチを入れる。どういう仕組みなのか知らないが、このところ毎朝この時間になると、アパートの周囲で一斉にセミが鳴き出すことになっている。その度に僕はこうして起こされることになり、どうにも迷惑な話なのだが、今日は特に腹立たしかった。

 暑さにあえぎながら布団の上で転げ回っていると、セミの声は突然ぱったりと止んだ。これもまた、毎朝のことである。ガーガーやかましいばかりでちっとも冷えないクーラーもようやく効いてきて、部屋の暑さもましになってきた。よし、これでもう一眠りできるぞとほっとしたその瞬間、今度はドアのチャイムがピンポンと鳴った。
 無視する。こんな朝早くから訪ねてくる客など、どうせまともな相手ではない。
 ややあって、もう一度チャイムが鳴った。それでも知らん顔をしていると、玄関ドアの向こうから声が聞こえてきた。
「いないんですかね、一郎さん」
「いや、でもクーラーがついてるよ。メーターがこんなに回ってる」
「寝てるだけですかね。じゃあ起こしてあげましょう。一郎さーん!」
 途端に、玄関チャイムの電子音が、けたたましく連続して鳴り響き始めた。ピポピポピンポポンとリズムを付けて鳴らされるチャイムはまるでモールス信号のようでもある。
「ニイタカヤマノボレ!」
 僕は思わず叫びながら、飛び起きて玄関ドアを開けた。せっかくの冷気が、一瞬にして外へ逃げだす。
「このボケどもが、うるさいんじゃ!」

「お。起きましたか、一郎さん」
 そう言ってにやりと笑ったひげ面のその大男は猪熊と言って、やはり大学の後輩だった。その横に立っている、円い銀縁眼鏡をかけた奴が問題の白滝である。なぜ、こいつがこんな朝からここにいるのだ。しかも、妙に楽しそうな顔をしていやがる。
「何だ、こんな朝早くから」
 外の熱気にやられてめまいを起こしそうになりながら、僕は怒鳴った。
「早いですか。すみませんね、俺昨日からずっと寝てないんで、時間とか良く分かってないんで」
 猪熊が頭を掻いた。
「猪熊くん、徹夜麻雀明けらしいんですよ。だから仕方ないですよね」
 隣の白滝が、もっともらしい顔でうなずく。
「何が『だから仕方ない』だ、そんなもん知ったことか。俺は寝る。じゃあな」

 僕はそのままドアを閉め、薄暗い室内に引きこもろうとした。途端に、白滝が閉じかけたドアの隙間にスニーカーを突っ込んできた。お前は刑事か、そこまでするか。
「ちょっと待ってください、ドライブですよ、みんなで海までドライブ」
 早口で、白滝がまくしたてた。
「海? ドライブ? 車なんかどこにあるんだ、馬鹿が」
 無慈悲にスニーカーを押しつぶすべく、僕はドアノブを引っ張る。
「いや、車はあるんです。ちゃんと猪熊君が自分の車を手に入れて。いてててて、足が足が」
「嘘をつけ」
 思わず僕は、猪熊に向かって指を突きつけた。
「こいつのどこに、そんな金があるんだ。見ろ、この無精ひげを」
「いや、ひげと金はあんまり関係がないかと」
 そう言いながら、猪熊はむさ苦しいあごひげに手をやる。
「まあ、それはいいんですが、車は買ったんじゃありません。ぶん捕ったんですよ」
「ぶん捕った?」
 どうも話が怪しげなことになってきた。
「猪熊君、麻雀で圧勝したんですよ。昨日の夜、波州大の連中に」
 なぜか白滝が、得意げに胸を張った。波州大と言えば、この波丘の街において我らが母校と勢力を二分する宿命のライバル校だ。僕らのバイト先においても一大派閥を築いている。そして近頃の麻雀ブーム再燃もあって、あちこちの雀荘で毎晩のように、両大学生の熱戦が繰り広げられていた。まるで昭和の世界である。

「テンピンのレートで十万点も勝ったもんだから、波州大の奴らも金が足りなくて」
「で、代わりに車をもらってきたわけです」
 にやりと猪熊が笑う。
「へえ、やるじゃないか、猪熊」
「そう言うわけなので、ドライブへ。大沢さんたちも来てます」
 白滝がにこやかに言った。しかし、昨晩あれだけの騒ぎを起こしておいて、朝からこの朗らかさというは、こいつの体と頭は一体どうなっているのか。
「まあ、それじゃしょうがない。一つその戦利品とやらでドライブに行くか。どこにあるんだ、その車は」
「乗ってきましたよ。下に停めてあります」
「おお、そうか。分かった、すぐ行くから待っててくれ。四十秒で支度する」

 僕はさっそく着替えると、窓用クーラーを切って部屋を出た。海へのドライブと言うことで、青いアロハシャツに麻のショートパンツ、小振りの麦わら帽子をかぶって黒いサングラスという、リゾートスタイルである。本当はウクレレがあれば、より完璧なのだが。
 そして、期待に胸を膨らませて鉄板を踏み鳴らしつつ階段を駆け降りた僕は、アパートの玄関先で件の車を目にすることになった。
(第二話へ続く

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